朝日新聞の歴史を探ってみた!朝日新聞出身の有名人とは?

新聞社
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朝日新聞は日本国内において、読売新聞の次に発行部数が多い新聞社です。朝刊は約71万部、そして、夕刊は約240万部発行されています。

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朝日新聞の黎明期

朝日新聞が誕生したのは今から130年以上昔のことです。

創始者は村山龍平と上野理一という2人の人物です。生糸商西垣屋の家に生まれた上野理一は地方官吏を務めた後に、大阪の小さな新聞社に入社しました。その翌年には一切の経営権を任されるようになり、村山龍平と協力し、今の朝日新聞の土台を築きました。

創刊されたときの新聞の価格は1銭でした。紙面は今のような大きさではなく、もっと小さなスペースで4ページ程しかありませんでした。

しかしながら、すべての漢字にふりがながふってあり、また挿し絵が入っていたため、非常に読みやすく分かりやすい新聞という評判でした。実際、親しみを持ってもらい大衆に受け入れられる新聞というのが創業当時のモットーだったようです。

当時は官権派や民権派の政論新聞が主流でしたが、創始者たちはそれを毛嫌いし、創刊3年後に「報道中心主義」と「公平無私」を社是とすることにしました。こうしたことが大衆受けをしたのか創刊4年後には発行部数が20000部にも達し、当時の新聞の中では最も多い発行部数を誇るようになりました。

その後、大阪から東京に本社を移し、東京朝日新聞と名乗るようになりました。

朝日新聞出身の有名人たち

朝日新聞には、今では歴史的に有名になっている様々な人物が入社しています。

例えば、その1人に夏目漱石がいます。夏目漱石は、東京帝大と一高で講師を努めていましたが、それを辞めて40歳で新聞社に入社することにしました。

それは吾輩は猫である、坊ちゃんという有名になった作品を発行してから間もない頃でした。入社後もいろいろな作品を発表していきましたが、その中には虞美人草、三四郎といった作品が含まれています。

さらに、1909年には石川啄木が入社しています。石川啄木は校正係を担当する傍ら、一握の砂を発表しました。

朝日新聞と高校野球

朝日新聞といえば、高校野球と結びつける人もいることでしょう。今でも高校野球全国大会は朝日新聞主催で行われています。この第1回目の大会が開かれたのは1915年です。第1回全国中等学校優勝野球大会という名称のもとに開かれました。

その時代は73校が予選に参加しました。その中から10校が代表として出場し、京都ニ中が見事に優勝しました。それ以降毎年全国大会が開かれ伝統ある行事となっています。

まとめ

朝日新聞は全国紙としての役割を担って、様々な報道やスクープを社会に提供してきました。その貢献度は非常に大きいと言えます。

しかし、それと同時に誤報で様々な物議を醸してきたことも事実です。報道機関は公平かつ公正な報道を世に提供してゆくことが求められています。今後報道機関としての、この使命をどのように真摯に果たしてゆくのかが注目されています。

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